東京地方裁判所 平成4年(ワ)22564号 判決 1997年4月11日
主文
一 被告は、原告に対し金八七〇万円及びこれに対する平成三年二月八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は三分し、その一を原告の負担とし、その二を被告の負担とする。
理由
【事実及び理由】
第一 原告の請求
一 被告は、原告に対し金一三二〇万円及びこれに対する平成三年二月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 仮執行の宣言
第二 当事者の主張
(以下の事実の主張のうち、傍線を引いたものは争いがある事実であり、その場合における主な争いの内容は直後の< >内に小さな文字で記載した。傍線を引いていないものは争いがない事実である。なお、請求原因3については、争いがある趣旨を示すために表題に傍線を付してある。)
一 原告の請求原因
1 当事者と無断取引
被告は証券業を営む株式会社であり、原告は被告と証券取引をしていたものである。
被告における原告担当係員であった松岡健二(以下「松岡」という。)は、原告の口座における預託金を原告に無断で使用して原告の名義で株式の売買をした。
<被告の争いの内容--無断売買はしていない。原告は、損失補填を求めるために無断売買との主張をしているものである。>
2 和解契約とその一部履行
松岡による無断売買が発覚したため、原告が抗議した結果、平成三年二月七日、原告と被告間に和解契約が成立し、現物取引における無断売買による現実損害六九〇万円及び同信用取引における無断売買による現実損害六三〇万円を被告が賠償すること並びに信用取引における無断売買の未決済分の評価損を被告が負担することが合意された。しかし、被告は、右の最後の評価損の負担だけはしたが、その余の合意事項である損害の賠償をしない。
<被告の争いの内容--原告との間に紛争が生じたため、平成三年二月一五日被告が譲歩して未決済の信用取引について評価損を負担するという和解が成立し、被告はそれを履行している。>
3 原告の請求内容
そこで、原告は、被告に対し、和解契約に基づき右損害の合計一三二〇万円及びこれに対する和解契約成立の日の翌日から完済までの民法所定の割合による遅延損害金の支払いを求める。
第三 争点についての判断(事実の認定については、認定に供した主な証拠を事実の末尾に略記する。成立に争いがないか弁論の全趣旨により成立の認められる書証については、その旨の説示を省略する。)
一 和解契約の成立の経緯
1 松岡による無断取引
(一) 認定事実
(1) 原告は、平成元年一二月に被告本店営業部に取引口座を開設して被告と証券取引を開始したところ、担当者の松岡からきちんと取引内容の説明がないものがあり、気付く都度松岡に注意すると、松岡は取り消しますと答えていたが、その後も訂正されていなかった。そこで、原告は、平成二年一一月二六日に松岡に連絡して原告方に来て貰い確認したところ、松岡は無断取引があったことを認め、「売買取引に関しあいまいな点があり、行き違いがあり、ご迷惑をおかけしました。今後は課長と相談の上株式の売買等を確実に承認をとったうえで行い、損害を取り返すべく努力しますのでよろしくご配慮下さい。」と取引経過書の裏面に記載(以下「自認書」ということがある。)して、原告に手渡した。
原告は、高齢であり(平成二年当時は六六歳)、体も声も大きい方ではなく、原告が平成二年一一月二六日に若い松岡に対して脅迫するような言辞をもって迫ったというようなことを窺わせる証拠はないし、執拗に書面に記載するように要求したという証拠もない。それにもかかわらず、松岡は、二六日の面談だけで直ちに右のような自認書の記載をしたものである。したがって、自認書の右記載内容は基本的には真実であると考えるのが合理的である。
(2) 翌日の平成二年一一月二七日、松岡は、上司の河野課長と共に原告を訪問し、原告の意向を確認し、無断売買を同日をもって凍結すると述べた。
(二) 反対証拠について
これに対し、河野は、「松岡は、無断取引をしていないが、原告からねじ込まれ、因縁を付けられたので、事実でないのに、(一)(1)のとおり自認書の記載をした。」旨を供述する。
しかし、これは考えられない。仮に少々のクレームがあったとしても、それを止めさせるために、真実は無断取引等をしていないのにそれをしたと虚偽の事実を書面に書くということは通常は考えられないからである。とりわけ、原告が前記のとおり松岡を脅迫したとかいう形跡がないのであるし、河野自身も二七日に原告に面談した際に、「松岡が原告に言われるままに虚偽の記載をしているので、撤回させて欲しい。」といった抗議のようなことを述べた形跡もない。そうである以上、河野の(二)冒頭の供述は採用できない。
2 無断取引の内容
(一) 認定事実
松岡は、原告名義でした取引の全体について、原告から抗議を受けた平成二年一一月二六日に手書きで現物取引と信用取引とに分けた報告書(以下「手書報告書」ということがある。)を作成して原告方に持参した。それに傍線を付したのが原告主張による無断取引である。これによれば、現物取引のものが平成二年四月一八日のJOTCファンド株の買いに始まり同年九月一九日のマツヤデンキワラントの売りまでで銘柄及び取引単位で二四件五四一万円(万円未満省略。以下も同様。なお、松岡が記載してきた取引全部を合算すると六九六万円となるが、傍線を付したもので後記の原告の記憶違いを是正した分を合計すると、五四一万円となる。計算について別紙参照)の損、信用取引のものが同年八月二二日のアラビヤ石油株の買いに始まり同年一一月二一日のゼクセル株の売りまでの約二四件三三四万円(なお、松岡が記載してきた取引全部を合算すると六三二万円となるが、傍線を付したもので後記の原告の記憶違いを是正した分を合計すると、三三四万円となる。別紙参照)の損であった。これが平成二年一一月二六日までに決済を終えている無断取引の内容ということになる。
なお、原告に記憶違いがあり、現物取引のうち平成二年六月一九日のエステー化学株、また信用取引のうち同年八月一七日買のアラ石株、同年九月二七日売り・一〇月一日買いのイトマン株は無断取引ではない。そして、右アラ石株については、買いは承認、売りは無断ということになり、通常はどこかで売らなければならないが、他の日に原告の承諾を得て売ることとしたであろう場合に比べて、無断とされた売りが明らかに損害を与えるようなものであったとまでの証拠はないので、この無断の売りによる損害額は計上しない扱いとするのが公平に合致すると考える。
(二) 反対証拠について
これに対し、被告は、無断取引はほとんどない旨を主張し、原告が預り証に署名押印をした取引が多くあり、これらは無断取引でないことを示すものである旨を指摘する。
しかし、原告が平成二年一一月二六日に手書報告書記載の取引の大部分について無断取引である旨を述べた同じ日にその場で、松岡が前記自認書に「あいまいな点があり、行き違いがあり、ご迷惑をかけた。」旨を記載していること及び、松岡は、潔白なら出頭して説明すればよいと思われるのに、本件に関わりたくないとの理由で事実関係等の調査に関して被告に協力しない状態にあることからすれば、基本的には右原告主張の取引が無断取引であったといってよい。そして、預り証に原告が署名しかつその作成が遅れずにされている取引などについては、原告においてその署名当時は自己の取引として容認するつもりになっていたかもしれないものの、松岡との交渉時にはそれを容認するつもりはなくなっていたものであり、いずれにしろ原告が手書報告書に傍線を付した取引(甲二〇による記憶違いの是正済みのもの)は無断でされたものであったといってよいと思われる。
3 和解契約に向けての被告の態度
(一) 認定事実
次いで、平成二年一二月三日には、河野課長の上司である営業部次長の井上が、原告方を訪れ、松岡が記載して原告に交付していた手書報告書を見ながら、現物取引、信用取引、評価損のグループをまとめて三月までに弁償する旨を述べた。
これを聞いた松岡は大変喜んだ。ところが、被告は、既に凍結・取消を表明した無断取引について通常取引の場合と同様の決済手続を進め、平成二年一二月一三日には河野が同年一〇月三一日買い、同年一一月二一日売りのゼクセル株の受渡清算に原告方を訪問した。これを知った原告は、怒りを覚え、平成三年一月八日付けの文書をもって右のとおりの経緯を述べたうえで、無断取引の継続による被害を被っているとして、被告の本店営業部長の滝口氏に対して報告及び抗議をした。
(二) 反対証拠について
これに対し、証人井上は、「平成二年一二月三日に原告方を訪問したが、その目的は原告がいう納得のできない取引を特定するためであった。ところが、原告は、ゼクセル株と加工紙株についてははっきりしていたが、その他ははっきりせず、その後の確認作業においては、無断取引の対象がその都度変化していた。」旨を供述する。
しかし、原告が(一)の平成三年一月八日の文書をもってした抗議は、平成二年一二月三日に今後の弁済を約束したことを摘示したうえでのことであり、(一)のとおりの弁済約束がされたことを示しているのである。事後的に作成されたものでない文書の中に虚偽の事実が記載されるのは通例ではなく、しかも右の文書の記載内容が前後の事実の動きによく整合しているのであるから、その記載内容は基本的に事実であるということができる。仮に証人井上の(二)冒頭の供述を前提とすれば、右甲五の文書の記載は、原告が虚偽と知りつつ行ったということになるが、原告が平成二年一一月頃から平成三年一月ころにかけて将来の訴訟戦術を考慮して繰り返し虚偽の事実を並べ続けたというのは、いかにも不自然で考えにくい。
4 和解契約
(一) 認定事実
井上は、平成三年二月七日に原告と無断取引の処置に関する協議を行い、原告に対し、「信用損、終、六三〇万」「現物損、終、六九〇万」「評価損、五二〇万」などと記載したメモ--(以下「和解メモ」という。)を交付した。右の前二者が2のとおりの松岡の手書報告書の数字と一致していること、原告の尋問結果及びこれまでの事実を総合すると、平成三年二月七日の時点において、現物の無断取引による損害約五四〇万円(約六九〇万円のうち、無断であるものを抽出して合算した上、一〇万円以下を切捨てたもの)、信用の無断取引による損害三三〇万円(約六三〇万円のうち、無断であるものを抽出して合算した上、一〇万円以下を切捨てたもの)及び未決済の取引の評価損約五二〇万円の損害があり、これを被告において引き受ける旨が申し出られ、原告がこれに承諾したと認めるのが相当である。
すなわち、このようにして、無断取引の処置に関する和解契約が口頭で成立したということができる。
(二) 反対証拠について
(1) 被告は、信用取引の未決済分についての評価損を被告において引き受ける旨が合意されただけである旨を主張し、その根拠として、甲一六の和解メモと乙三の確認書(以下「残高証明付確認書」という。)を挙げる。
しかし、いずれも、記載内容だけからはそのような根拠となるものとはいえない。すなわち、まず甲一六の和解メモについていえば、なぜ評価損だけが特別に扱われるかが不明である。仮にこれが和解の根拠となるなら、評価損だけでなく、現物損、信用損も同列に扱われる方が合理性がある。
(2) 次に、乙三の残高証明付確認書は、被告が預かっている原告の証券及び現金等がどの位あるかを示す確認書であり、そのことは表題と本文の不動文字の体裁から性質上明らかである。そして、右確認書は、別紙残高証明書として別紙を引用し、別紙においては被告が預かっている株式の銘柄と数量が記載されている。さらに、右の別紙には、「信用建玉明細」の項目があり、そこに未決済の信用取引の内容が記載され、アラビア石油一〇〇〇株、大和紡績二〇〇〇株、日本加工製紙一万株、ゼクセル三〇〇〇株と記載されている。
以上のとおり、この残高証明付確認書には、右の未決済の信用取引を被告の計算で決済するとの記載は全くないし、「無断取引」、「賠償」、「評価損」といった言葉も一切ない。わずかに「私が貴社に預託中の金銭、有価証券、、、信用取引、、、、の建玉又は貴社からの債務は上記のとおりであり、私と貴社との間に上記以外に何らの債権債務又は特段の合意等が存在しないことを確認します。」と活字で印刷された部分がある程度である。すなわち、この確認書は、基本的には、預託証券及び現金の内容や多寡について顧客と被告会社に食い違いが生じたときにその内容を確認するための定型文書ではないかと思われる。元来無断売買のような違法な行為がされたときの清算をするための定型文書を被告が備え置きしているとは考えられないのであり、右確認書に原告が署名捺印したことで無断売買に伴う和解が成立したということはできず、またその内容として、被告において評価損を引き受けるだけで他には賠償はしないといったことは全く記載されていないのである。
(3) なお、和解を実行するためとして、被告は平成三年二月一三日残高証明付確認書(乙三)に署名捺印を求め、原告はこれに応じた。被告の井上らは、右の確認書に原告の署名捺印を貰った後、確認書の作成日欄に平成三年二月一五日と記載し、同月一五日に前記四銘柄の信用建玉を売り決済し、同日その損金二二二万八三二四円を被告において負担する旨を被告社内の稟議に図り、その了承を得た。なお、評価損の金額は、従前五二〇万円とされていたものがこの時点では右金額のとおりとなったものである。そして、被告は、これ以降原告に対し、現物損及び信用損の賠償はしないという態度を採っている。
しかし、前記(1)(2)を踏まえると、右の事情は、平成三年二月一五日現在の未決済の信用取引だけを被告において引き受けることが合意されたことを示すものではない。むしろ以上の事情と前記(1)(2)とを総合すると、被告の井上らは、原告から無断取引であるとの抗議を受けた後に、(一)のとおりの合意をしたにもかかわらず、その合意がきちんとした形で文書化されていなかったことなどから、和解契約の実行と偽り預託証券の確認を受けるだけの残高証明付確認書<乙三>に原告に署名捺印させ、これをもって和解契約書であるとし、そこに摘示されていた信用取引の未決済の四銘柄について、被告による引き受けを先行させ、これをもって無断取引に伴う和解とその履行の全てであると強弁したものと推認されるところである。
二 結論
よって、一4(一)の内容の和解契約が成立していると認められる。そこで、その履行を求める原告の請求は、現物取引分五四〇万円及び信用取引分三三〇万円の限度で理由があるのでこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条・九二条を適用し、仮執行の宣言についてはその必要がないのでこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。
(裁判官 岡光民雄)